探偵に必要不可欠なもの

最近、街中で探偵事務所の看板をよく見かけます。初めて見た時は探偵なんて職業が儲かるのだろうかと思っていたものですが、それを仕事にする人が増えているということは実際探偵に頼って来る人も増えているということなのでしょうね。そして看板の多くに女性探偵事務所とあります。お客さんが女性の場合、やはり同じ女性の方が安心もできるということなのでしょうが、逆に女性にはハードな仕事なのではと心配もしてしまいます。
【勝者のワザ】ブリヂストン招待

 先月、31歳になったアダム・スコット。30代はスランプからのスタートだった。ドライバーショットは荒れ、パッティングは決まらない…。この1年間で、ドライバーのシャフトを何本入れ替えたことか。

 2009年のシーズン開幕前にプロ級といわれるサーフィンで右ひざを痛めた。その後遺症もあったようで、ドライバーショットでは、平均飛距離が10ヤード近く落としていた。

 ツアープロは、その長い戦いの期間に何度か曲がり角を迎える。肉体的・体力的な変化、技術面での迷い、メンタル面での安定と高揚、燃え尽き症候群に陥ることもある。

 スコットには、そのどれもが当てはまっていた。ツアープロとして初めて曲がり角に立たされていた。スイング調整。そして、調整後の最適なドライバー探し(シャフト探し)、パッティングの問題にも初めて正面から取り組んだ。結論は「今までと同じことをやっていたのでは抜け出せない」だった。

 一番大きな変化といえば、パターを長尺に切り替えたことだろう。今春の「WGCアクセンチュアマッチプレー選手権」の練習日に初めてコースに持ち込み、練習グリーンでボールを転がし始めた。そして、本番でも、そのまま長尺パターを使った。結果は1回戦負けではあったが、それ以降も使い続けて試合でストロークの安定、距離感の掌握を実践していった。

 さらに、大きな変化が訪れる。6月、コングレッショナルCCでの「全米オープン」だった。一時、タイガー・ウッズが、この大会からツアー復帰するのではないかといわれていた。練習日には、タイガー専属キャディーのスティーブ・ウィリアムスがコース入りして、タイガーの到着を待っていた。しかし、タイガーは左ひざの回復が遅れ、欠場するという連絡が大会本部に届いた。それなら…と、この大会で自分のキャディーを臨時でやってくれないかとスティーブに申し入れたのがスコットだった。

 スティーブがタイガーに連絡し、了解をとりつけてスコットのバッグを担ぐことになったのだった。タイガーが復帰すれば、またスティーブとのコンビが復活する−。少なくともスティーブは、そのつもりでいたのだが、それから間もなく、スティーブはタイガーからキャディー契約を打ち切られる、早い話がクビを宣告される。タイガーは「直接会って」といい、スティーブは「電話で一方的に」と言い分が異なるが、このあたりの事情は定かではない。

 いずれにしても、スコットはスティーブとのコンビを続けることができるようになった。迎えた「WGCブリヂストン招待」である。スティーブは、タイガーとのコンビでこの大会で7勝している。コースを知りつくしている。

 スコットは、スイング、ショット、パッティングの調子が戻り、その上、キャディー生活33年で、この間にレイモンド・フロイド、グレッグ・ノーマン、タイガー・ウッズといった超大物プレーヤーと組み145勝以上積み上げてきたスティーブが参謀役にもついた。全てが整っての優勝だった。

 いくら練習しても、なかなか上達しないという人は、思い切ってクラブを交換してみるのも、意外な発見につながりそうだ。

 ■アダム・スコット 1980年7月16日、オーストラリア・アデレード生まれ、31歳。母国の英雄グレッグ・ノーマンに憧れてゴルフを始め、2000年6月、大学を2年で中退してプロ転向。01年の欧州ツアー「アルフレッド・ダンヒル選手権」でツアー初優勝。03年の「ドイツ銀行選手権」で米ツアー初優勝を飾る。04年の「プレーヤーズ選手権」、06年の「ツアー選手権」を制覇。米ツアー通算8勝。メジャーは未勝利。185センチ、75キロ。

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 敗血症のために92歳で亡くなった読売巨人軍・正力亨名誉オーナーは、誰よりも巨人軍を愛していた。巨人OBの間からもこんな本音が聞かれる。

 「正力亨さんがオーナーだった時代の巨人軍は本当に良かった。読売新聞社の商売のために巨人を活用しようとか、そんな色気はさらさらなかった。純粋に巨人を勝たせるためだけに情熱を持ち、全力を傾けたオーナーだったからね」と。

 1975年、長嶋茂雄第一次政権が誕生したシーズンから巨人担当になり、正力オーナーを取材してきた記者としては、「全くその通りだ」とただうなずくしかない。月に1回、長嶋監督、コーチ陣と正力オーナー以下のフロント陣が一堂に会して定例の昼食会を開いたのもそうだった。

 「現場のユニホーム組と背広組の間に意思の疎通が欠けていては、巨人軍は勝てない。月に1度くらいは食事をしながらざっくばらんに意見交換する必要がある」という、正力オーナーの発案で実行された月1回の昼食会。実際に現場首脳とフロント首脳のパイプをつなぐ役割を果たしたし、正力オーナー自身は毎日のように球場通い。巨人軍を熱烈応援、現場首脳陣とだけでなく、選手とのスキンシップもとっていた。

 正力オーナー・長嶋監督の名コンビぶりは、懐の深いマスコミへの対応にも現れていた。「プロなんだから、書かれてナンボの世界。悪口でも書かれないよりも書かれた方がまし。書かれなくなったら、プロは終わりだ」という長嶋監督のスタンスに負けず劣らず、マスコミにオープンだった正力オーナー。

 夜討ち朝駆け、いつ自宅まで取材に行っても嫌な顔一つされなかった。時には意表を突いたカウンターパンチを浴びたものだ。「きょうは築地からきたのか?」といきなり切り出され、「築地ですか?」と怪訝な顔するとダメ出しされた。「築地と言ったら、河岸に決まっているだろう。生臭い話、ストーブリーグの取材かと聞いているんだよ」と。長嶋監督同様に、マスコミとの言葉のキャッチボールが大好きで、こんなやりとりは何度もあった。

 ストーブリーグ取材で正力オーナーの車を追走していたが、追い切れずに一足先に自宅へ入られてしまい、大あわて。オーナーと同じくマスコミ取材に理解ある夫人に対し、「申し訳ありませんが、わが社の日本製のベンツではオーナーの本場のベンツにはかないませんでした」とつまらない冗談を言い、必死に取り次ぎをお願い。笑いながら正力オーナーが玄関先まで出てきてくれたこともある。

 ちょっと痛いところに触れられると、フロント首脳がすぐに取材拒否を口にする、閉塞感漂う現在の巨人軍とは大違いだろう。96年12月から名誉オーナーに就任した正力前オーナーの死去の報を聞き、マスコミ球団らしい、古き良き時代の懐の深い巨人軍を久々に思い起こした。合掌。(夕刊フジ編集委員・江尻良文)

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